「賄賂」とは何なのかをベトナム生活を振り返って考えてみた

ベトナムに住んでいると賄賂というものについて考えさせられます。
ビジネスをしていくにも、生活をしていくにも、長く住んでいればいつかは見聞きするものだからです。

もちろん賄賂という仕組みは市場経済を非効率にするものであり、
無くなっていくほうが望ましいものだとは思いますが、
ゼロかイチかで議論するのもそれはそれで危ないと思うのです。

たとえばベトナムにいるとこのような話が聞こえてきたりします。

  • 交通違反で捕まっても大体1000円~5000円で解決ができる。
    違反の程度は金額に関係ない
  • 事業に必要なライセンスを取るコストが非常に高いため、
    関係機関に賄賂を送ることで対応する
  • ビザの申請をする時にパスポートにお金を挟んでおくと早く完了する

例えば、そういった話があった時にどう考えるか、ということです

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国の成熟と賄賂について

賄賂は絶対ダメ、そう言っている日本も昔は賄賂が横行していたといいます。
おまんじゅうの下に小判を入れて「お主も悪よのう」と言う、、、
などのイメージがありますよね。
今の時代にそれをやっては大問題ですが、昔はある程度行われていたと考えるのが自然です。

そうなると日本も賄賂文化が昔はあったのではないでしょうか。

中国も数年前までは何でもかんでも賄賂でなんとかなると言われていました、
しかし、最近では賄賂が通用しなくなってきたことが多いらしいです。

実はベトナムでも今年から飲酒運転の摘発が厳しくなり、賄賂が通用しなくなっているようです。
急激に居酒屋の売上が減少したというニュースがあるので、ベトナム人でも同じなのだと思います。

そう考えると、アジアの国々では国の成熟と合わせて賄賂が通用する範囲が狭くなっているのではないかと思うのです。

1000円、1万円、10万円、100万円、1000万円、1億円・・・
成熟度に合わせて、安い分野では効かなくなっているのではないでしょうか

そして、日本も含めて高額な領域では賄賂が通用している可能性もあると思います。
契約文化である欧米からすると賄賂は絶対にありえない、という価値観なのは間違いないのですが、
アジア圏では必要経費として普通に用いられていたのではないでしょうか。

日本はアジアの中で最も早く経済発展したため、最も賄賂の通用する範囲が狭くなっているとは思いますし、
欧米の価値観を取り入れているので賄賂が殆どない社会となっているとは思いますが
個人的には完全に賄賂をなくす仕組みを持っているシンガポール以外の国はまだまだこの文化を持っていると思います。

必要経費としての賄賂という考え方

一庶民からすれば「お金持ちしか賄賂なんてもらえないしずるい」みたいな意見もあるかもしれません。
日本で普通に暮らしていれば、賄賂なんて自分には関係ないしもらっている人を妬ましく思う気持ちもわかります。

もしこれがたとえば、このような状態だったらどうでしょう?

なにか交通違反をして白バイに止められた時に、
ちゃんと処理がされたら7000円を支払ってバイクが没収されて、2週間後に郊外まで1時間かけて取りに行く
または、その場で1000円渡して終わり。

どっちがいいいですか?という話です。

もちろん賄賂があることによって、法律に書かれている通りの正しい罰が課されないことにより、違反減少効果が少なかったり、国庫にお金が入らないことで国の歳入が足りなくなったり、または現場の人が私腹を肥やすために言いがかりをつけて捕まえたり、賄賂はマイナスの影響が多く、無くなったほうがいいのは確かです。
それでも、もし1000円渡して済むのであれば、そうする人が多いのではないでしょうか。
わざわざ「正式な書類を作って7000円払わせてください。そして、このバイクを没収してください」って言いますか?

賄賂の適用範囲が広いと、このように一般市民にとっても賄賂という選択肢が当たり前になってくるんですよね。
そうなると、賄賂は必要経費であり、選択肢の一つになるのはないかと思います。

まるでスーパーマーケットの値段を比較するのと同じように、正規ルートと賄賂ルートの金額とリスクを比較した上で意思決定していこうという意識が出てくるのかもしれません。

更に、皆それが当たり前という世界だとした場合に、その中で正規ルートを歩むことはものすごく時間やお金がかかるということになります。
残念ながら賄賂がなければ全く仕事が受注できなかったり、経費が2倍以上かかったり、または期間がとても長くなるという話はベトナムにいるとちらほら聞こえてきました。

ゼロとイチの間にあるグラデーションを理解する

今までお話してきたように、国や文化によって賄賂がある程度普通になってしまっているところというのはあると思います。
もちろん良くないものですし、リスクもありますし、なくしていくべきものだとは思います。
でも、戦争反対、交戦権の放棄、と言っても他の国が交戦権を放棄しないのと同じように、賄賂が当たり前の世界において賄賂を放棄すると言ってもただ負けてしまうだけです。

実際の世界がそうなっている時に「賄賂は絶対に駄目!」そう言っているのはなんだか違和感があると思いませんか?理想だけを見るのではなく、現実も見ていかないと違う文化や習慣の人たちとうまくやっていくことはできない、そういう一例なのではないかと思います。

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